【ドラクエ映画】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー感想【ネタバレ】
観てきました。
感想を書くべき作品だと感じたのでこうして記事にさせていただきました。
以下記事を読む前の注意点
- 映画の核心を含むネタバレがあります
- 約12000字の長文です
- 辛口評価です
- 同時期に公開された『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』の内容に触れて比較する箇所があります
以上を承知の方のみお読みください。
まず最初にこれだけは誠意を以て伝えます。
この映画は親子連れで観に行ってはいけません。
もしかしたら世のお父さんお母さんは、上映後に瞳を輝かせている子供に対して「これがぼくわたしが昔夢中になってたゲームなんだよ」とちょっぴり自慢げに語る情景を想像しながらこの映画を観に行く計画を立てているかもしれませんが、そのような光景を実現することは不可能です。
この映画はドラクエ5をプレイしたことがない子供が観ても楽しめないし、お話を理解することができません。
この作品はドラクエ5をプレイした大人の懐古のために作られています。
なので絶対にドラクエを知らない子供を連れて行ってはいけません。
以上を前提とした上で、小学生の頃に父が過去に遊んでいたスーパーファミコン版のドラゴンクエストⅤを遊んだことのある私の感想が以下になります。
私たちは、子供から大人に成長する中で、いつの間にか挑戦する心というものを失っていたのかもしれません。
なけなしのおこづかいで買ったゲームや観た映画がつまらなくて「チクショウ!」となる体験をするにはなかなか難しい時代になりました。
SNSにはユーザーたちの生の感想が溢れ、いざお金や時間を使ってゲームや映画に触れようと思えば、その前に必ずインターネットの情報をチェックしてそれが「ハズレでないか」を確認するのが王道です。
雑誌のレビューよりも、匿名掲示板を飛び交う胡乱な情報合戦よりも、それらより遥かに信頼できるSNS上で口コミとして交わされる膨大な情報量の感想たち。
私も最近映画を観るときはSNSなどでなんとなく面白そうという情報を仕入れてから観るようになっていました。
しかし今回のドラゴンクエストの映画化に、ドラゴンクエストというゲームで幼少期を過ごした私は強い感慨を覚えていました。
ナンバリング最新作のⅪもそうですが、ドラクエはいつも私に心躍るような冒険を体験させてくれます。
その冒険の形はゲームをプレイする人によって違うでしょうが、皆さんが心の中にドラクエの思い出をそれぞれの形で持っているように、私も私自身の体験としてのドラゴンクエストを持っています。
SNSの感想を踏まえて観に行って「いやぁ〜大傑作でしたねぇ」「巷で言われているようにあそこの演出は原作を尊重できていない悪手でしたなぁ」みたいな知った風な口を効くことは簡単です。
けれど、本当にそれでいいのでしょうか?
いくらSNSに溢れる感想から面白いか面白くないかを判断できるといっても、この膨大な情報が身近に溢れる現代だからこそ、敢えてそれをシャットアウトすべきときもある……。
この『ユア・ストーリー』と銘打たれた映画を、私は私自身の物語として享受したい。他の誰でもない、私だけのドラゴンクエストとして受け止めたい。
なので私は、この映画を予告編などの公式情報以外のネタバレや感想を一切見ず、ただまっさらな私自身の心のみでぶつかることにしました。
もしかしたらつまらないかもしれない。「こんなのドラクエじゃない!」と駄々をこねてしまうかもしれない。
でもそれでいいじゃないか。面白かった、つまらなかった、感動した、笑った……そんな感情の起伏のひとつひとつが私のドラゴンクエストという体験を、私自身を作っていくんだ。
もう一度わたしは挑戦したい。童心に還ってこのドラゴンクエストという物語を受け止めたい。
そう覚悟した私は、公開日当日に定時退社し、もう子供ではない大人としての生活リズムの身体のまま、けれど心だけはあのときの童心を強く秘めつつ、都内の映画館で『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観たのでした。
その結果は。。。
つまらなかった。
いや〜つまらない。
つまらないとしか言いようがない。
どんな作品だったとしても、たとえ原作の想い出を裏切るような体験だったとしても、私は映画を鑑賞することによって生まれる喜怒哀楽の感情をひとつの貴重な体験として尊重しようと思っていました。
しかしこの映画は《無》でした。
ただただ映画全体が虚無で、ポカンとすることしかできない。
劇場の椅子に座ってスクリーンを眺めている間ずっと退屈で、最初と最後のシーン以外に心がほんの僅かさえも動かないんですよ。
ドラゴンクエストの壮大な世界観とそこで繰り広げられる冒険が《無》という何かに落とし込まれたものを体験してきました。
けれど前情報なしで体当たりで映画を観に行って「失敗した〜」という体験を久しぶりにできて、そういう意味では非常に有意義でした。
まさしくなけなしのお小遣いで買ったゲームがつまらなくて「チクショウ!」となる感覚。
ドラゴンクエストを通じて、子供の頃に持っていて大人になる中で次第に忘れていってしまった冒険心を再び取り戻せた気分です。
ありがとう、ドラクエ(?)
これからどこがどうつまらないのかを語るわけですが、それがなかなかに難しいんですよね。
あそこが原作と違くてガッカリしたとか、あの表現がダサくてむかついたとか、そういうのじゃないんです。
前述した通りすべてが《無》に満ちている。
一応、最初と最後のシーンは心が動いたということで、まずは最初のシーンから語るのですけど、いや〜あれには動揺しました。
冒頭にて、魔王ミルドラースが封じられた魔界とそれを封印した天空人、そして勇者だけが扱うことのできる伝説の剣について語られます。
いわばスター・ウォーズの冒頭のアレが、ドラクエお馴染みのあのテキストウィンドウで語られていくのです。
正直この演出にはワクワクが止まりませんでした。
そして物語の幕が開くとそこには……
原作であるスーパーファミコン版のゲーム画面がドカン!と表示されていた。
これらの展開が実際のゲーム映像と共に繰り広げられていきます。
ポスターと予告編にて3DCGで描かれたキャラクターたちを観ていた私は、凄まじい動揺を受けると共にこれらの映像が示すものに次第に気づいていきます。
「これ、ダイジェストか?!」
わかってはいた。一本の映画にドラクエ5の壮大な物語がそのまま収まるはずがない。
どこかしらの要素をオミットしたり、物語の筋書きを大幅に書き換えたり、ゲームから映画にメディアが変わる以上は様々な描写の見せ方が変わってくるのは承知していた。
しかしまさか実際のゲーム画面を用いてダイジェストにするとは。。。
たしかに原作付きの作品で諸々の商業的縛りによりダイジェストを展開しなければならないとき、一番やりやすくてなおかつ観客の間にも齟齬が発生しない方法が何かといえば、そりゃまぁ原作をそのままやることなんですよね。
いやでもだったら原作やればよくない?????
実家に帰って押入の奥に仕舞われているスーパーファミコン本体とドラゴンクエストⅤのカセットを取り出せばそれが僕の『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』だよ。
最初に「親子連れで観に行ってはいけない」と書いた理由のひとつがこれで、
劇中で語られる「ビアンカとの出会い」「フローラとの出会い(SFC版は幼少期にフローラと出会うシーンはないのだけどダイジェストではいい感じに捏造されてる)」「ゲレゲレとの出会い」「ゴールドオーブの入手」は全てゲーム画面のダイジェストで終わるため、
原作を知らない人は後にビアンカと再会し、フローラと再会し、ゲレゲレと再会してもなんのことやらさっぱりなんです。
ゴールドオーブなるものを幼少期の自分が持っていたので時間を超えてそれをすり替える……という流れも映画一本だけでは意味不明です(ドラクエ5を象徴する物語上のギミックのひとつなので削りたくないのはわかるけど。。。)
この時点で「この映画は単体で作品として成立させる気はない」ということに気づき、私は作品を鑑賞する心構えを大きく変えることになります。
そんなこんなで壮大なドラゴンクエストの世界観を原作のゲーム画面そのままで表現したダイジェストの後、パパスがゲマに焼き殺されるところから実質の物語が始まります。
そしてその実質の物語が限りなく《無》なんです。
心が全く揺れ動かない、虚無の冒険が幕を開けます。
とりあえず以下の箇条書きを読んでください
- 住人が兵士ひとりとヘンリー王子しか描かれない限界集落ラインハット(そこが城ということすら認識できない)
- 雪中に佇むパパスの一軒家のみ描かれるサンタローズ(ただの一軒家なのでサンタローズという単語が村の名前と理解できない)(妊娠〜出産を経る月日が描写される間もずっと降雪してる)
- ルドマンとフローラしかいないルドマン邸(使用人とかはブオーンが怖くてみんな逃げちゃったのかな?)
- 原作では村人に話しかけることでその村の生活や状況などを推察したりできるが、この映画の村人はガヤ以上の喋りはしないモブなので、その村や街の人々の暮らしは見えてこない
- そのため魔王と魔物が世界を脅かしている様子がイマイチ見えてこない(それっぽく侵略の様子が描写されるが宙に浮いている)
- 劇中の重要な設定として天空人の単語が繰り返し語られるが、魔王ミルドラースを封印した彼らがかつてどのように暮らしていたのかなどのバックボーンは一切描写がない(天空城もオミットされている)
- マスタードラゴンことプサンが登場するが、彼についてのバックボーンも一切ない
- アルカパやチゾットなどの名前がちらりと出てくるが、さりとて世界観を補強する役割はなく、映画としては不要なただの無駄情報として提示される
- 街の移動が世界地図の表示や航海する船のカットで済まされる箇所が多すぎる
- 「やくそう」と「てんくうのつるぎ」以外の名前がついたアイテムは登場しない
- 劇伴が原作ドラゴンクエストⅤのもの以外にⅥや他作品のも使っていて統一性がない
- などの状況により映画の世界がドラゴンクエストの世界だという認識が持てない
3DCGで描かれた『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の世界はドラゴンクエストの世界として成立していません。それどころかドラクエ以前にひとつの「世界」としてすら成立していません。
そこで起きる出来事を私は「世界」を舞台にした「冒険」と受け止めることができませんでした。
えげつないと感じたのは、兵士とヘンリーしかいないラインハットやパパスの家しかないサンタローズが3DCGで描かれる度に、私の脳みそはそれらを補完するべく必死にスーパーファミコンのドット絵で描かれたマップ画面を思い出そうとするんです。
目の前で3DCGの映像が流れているのに、それを補完するためにドット絵を思い浮かべる必要があるってどういうこと?
3DCGで描かれる壮大なドラゴンクエストの世界を堪能するために映画館へ足を運んだはずなのに、実際はドット絵で描かれたゲームの方が遥かに世界の豊かさに満ちあふれているんです。
そんなのアリか?
そして世界観のみならず物語においても、様々な虚無が私を襲います。
- サンチョって誰?(グランバニアの設定はオミットされているのでパパスに付き従う召使いっぽい言動の彼が誰なのかは最後までわからない)
- 大神殿を建設する奴隷として働くが、その大神殿は最後までその映像が描かれず、何のために石を運んだりしていたのかが最後までわからない(最終決戦の舞台は大神殿の上空にある場所)(掘った穴をまた埋め直すとかそういう類のやつかな?)
- ヘンリーはダイジェストが終わるといつの間にかラインハットから攫われて、次の場面で気づけば隣にいて一緒にゲマに捕まり、その後大神殿を脱出するとすぐラインハットに場面が移り、結局何故彼がそこにいたのかよくわからないまま別れる(ヘンリーが物語に存在する意味は最終決戦にその他大勢と一緒に助太刀に駆けつける以外にない)
- 「サラボナのルドマンが天空の剣を持っているらしい」「大神殿城下街ではマスタードラゴンが人間に化けているらしい」と物語を進める情報が特に捻りもなく登場人物から「そういえばこんな話があるよ」とばかりに素で提示される
- ブオーン退治の依頼が“クエスト”と表現されたり「妖精に力になって貰おう(伏線ゼロ唐突)妖精は機械で守られていて(?)自分一人で試練に挑む必要がある(なんで?)」と異世界転生モノとばかりに“ゲームのお約束”を前提として物語が進行する
- 上に同じく登場人物が唐突に「バギマ!」「ベギラゴン!」と叫びながら嵐や炎を呼び出す。いやわかるよ?それがMPを消費して発動する魔法という行動で、レベルアップすることでそれらを取得し、モンスターとの戦闘を優位に運ぶことができるのは知ってる。でもこの映画においてMPとかレベルアップみたいな説明は一切してないし、じゃあ君たちが使ってる“ソレ”は何なのかって話になるじゃん?
- フローラが主人公の持つ本当の気持ちに気づかせるため占いばあさんに変身してビアンカとの仲を取り持つが、どうして彼女が他人に変身したり真実の愛に気づけるような薬を持っていたのかは一切説明されない(変身はモシャス的な魔法と推察できるのだけど、そもこの世界における魔法という概念がロクに説明されていない)
- 最初はフローラを結婚相手として考えていたが、薬を飲んで深層意識に沈み自己暗示をアンロックすることでその奥底にある最愛の相手がビアンカであることに気づく。しかし全てが理屈の上の物語展開と演出であり、そこに観客が感情移入できる余地は一切ない
- 「背中を任せられる相手が本当に大切な人なんだ」と喧嘩しながらも一緒に冒険をしてきたビアンカを結婚相手に選ぶが、幼少期のビアンカとの想い出はダイジェストのゲーム画面でしか描かれないので、映画の登場人物としてのオリジナルの性格付けをされたビアンカとした冒険や観客としての彼女への思い入れは、サラボナの近所の穴でブオーンと対決した以上のものがない
- 尺の都合上あらゆる出来事がまさしくイベントをこなすかのように進行するので、サラボナに来て結婚イベントが発生し結婚相手を選ぶまで劇中で一晩の時間しか経っていない。ビアンカもフローラも実質サラボナに来て初めて登場したキャラクターなので、ワンナイトの勢いで結婚相手を即決しているような状況
- 天空の剣を鞘から引き抜けない主人公は真の勇者ではない!といった描写が頻出するが、息子が天空の剣を引き抜く肝心のシーンは「石化が解かれた!すごい年月が流れてる?君は僕の息子?あっ間違えて天空の剣を渡しちゃったらなんか使いこなしてるよ!」ぐらいのスピード感で描かれるので感動する余裕すらない
- 劇中でことわざの誤用にツッコミが入るシーンがあるのだけど、そもファンタジー世界で日本のことわざが出てくるのがよくわからない(全体的な台詞回しにおいても「やばい」みたいな俗な言葉遣いが多く、もちろん原作ゲームの台詞で物語を進行させるのは無理なので脚本家の色を出す必要があるのだけれど、それにしてもどこか世界観にそぐなわない違和感を覚える)
- 物語のテンポがめちゃくちゃで、謎の説明シーンに?となったり「ここが盛り上がるところですよ!」と暗に言ってくるようなシーンに「お、おう」と無理やり感情を高めなければいけなかったりする
ドラゴンクエストが映画化され、その物語が5を下敷きにしたものになると知ったとき、私は心の中で「なるほど」と頷きました。
ドラクエ5は親子三代に渡る物語です。父の志を受け継ぐ息子。その息子が成長して結婚し子供をもうけて家庭を築き、そしてさらにその息子が父の意志を受け継ぎ――勇者となる。
家族愛というものは普遍的なテーマです。5を原作として選ぶことにより、家族愛といった要素に乗せて、ドラクエを知らない人も心揺さぶられる物語を届けることができる……映画を観る前までは5というチョイスにただ唸ることしかできませんでした。
しかし実際は違いました。この映画に家族愛みたいな要素はありません。
ちぐはぐなダイジェストと物語進行で、親子三代のドラマを感じることすらできません。
「本当の勇者は主人公ではなくその息子だった!」というドラクエ5最大のギミックすらあやふやです。
- 親から子へ継がれる親子三代のドラマが成立してない
- 結婚相手を選ぶにおけるドキドキ感やら恋愛やらのドラマも成立していない
- 原作ゲーム画面でダイジェストをしている以上、一本の映画として成立させることを諦めている
- かといって割り切って原作の雰囲気を懐かしもうとしても、ドラクエの世界観を表現することさえできていない
そんなこんな破綻を抱えたまま物語はクライマックスへ。
最後の最後で復活した大魔王ミルドラースは、実はミルドラースと置き換わって世界に介入したウイルスであり、なんとこの世界が仮想現実のゲーム世界だったことが判明します。
えっ????????????
ミルドラース――を置き換えて現界したドラゴンクエストの世界観を逸した無機質な存在。
それにより主人公以外のゲーム内時間は停止し、3DCGはテクスチャを剥がされ灰色のポリゴンとなり、そのポリゴンは分解されて塵へと消えていきます。
絶望する主人公。主人公は現実世界においてただの平凡な会社員であり、ドラクエをリメイクした仮想現実を体験できるゲームにおいて幼い頃にドラクエをプレイした想い出に浸りながら主人公になりきっていただけだったのです。
この瞬間、この物語におけるあらゆる謎が解かれます。
Q.どうして劇中で“クエスト”だなんて単語が出てきたり、異世界転生モノみたいな“ゲームのお約束”がメタ的に展開されていたの?
A.ゲームだから
Q.どうして子供時代を原作ゲームのダイジェストですっとばしたの?
A.ゲームだから(現実世界でゲーム開始前に子供時代をスキップする設定をしていた)
Q.どうして「フローラこそ理想の結婚相手だと思っていたけれどそれは自己暗示で本当はビアンカが好きだったんだ!」という無茶な物語が展開されたの?
A.ゲームだから(現実世界でゲーム開始前に敢えてフローラを結婚相手に選ぶ自己暗示プログラムを設定していた。本当に自己暗示だった)
Q.どうしてラインハットには兵士とヘンリーしかいないし、サンタローズはパパスの家しか出てこないし、全体的に3DCGによる世界観の表現がガバガバなの?
A.ゲームだから
Q.どうしてこの映画はちぐはぐでめちゃくちゃでつまらないの?
A.ゲームだから
Q.ユア・ストーリーって?
A.ゲームだから
そういうことだったのかリリン……となるばかりの超展開。
これまでの物語がどんなにつまらなくても、それがゲームだったからと言われたら仕方ありません。
つまらないことさえ伏線だったのです。
なるほど〜そういうことだったのか〜ゲームだったらつまらなくても仕方ないな〜
ってそんなわけあるか!!!!!!!!!!!!!
「実は全部ゲームでした」というどんでん返しがこの映画が娯楽作品として破綻していて一時間以上《無》の映像を観せられることの免罪符になるかといえば全くなりません。
しかしこの物語展開が、この映画が、スタッフ一同によって真摯に作られているということは観客の私にも伝わってきました。
「そもそも一本の映画でドラクエをまともにやるなんて無理でしょ」
そんなスタッフの心情が、ゲームの世界として切り捨てられ破壊されていく3DCGのキャラクターを通じて伝わってくるようでした。
そうです。無理なんです。
私は子供の頃は、つまらないゲームや映画に「どうして大人たちはこんなつまらないものをさも面白いかのような嘘の宣伝をしてこの世に送り出してユーザーを失望させるのだろう……」みたいなことをぼんやりと考えることもありました。
でも今の私は大人です。大人の私は、普段私たちが楽しんでいるゲームや映画はたくさんの人々が携わった結果であることを知っています。
良い結果を出すには人・金・時間が十分に用意されている必要があり、そして現実とは往々に残酷でそれらが不十分なまま物事に取り掛からなければならないことがあるのです。
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はそれらが不十分な作品でした。
家族愛という方向性で一般層にウケることを狙うためにも、往年のファンの懐古をくすぐって満足させるにも、それらを達成するために原作ゲームの要素をうまく再構成して一本の映画として再構成する技術を持つスタッフは存在しませんでした。そもそも映画の尺的に無理でした。
3DCGは予算の都合で町や村の情景をドラゴンクエストの世界観に落とし込んで表現することはできませんでした。もちろんキャラクターたちの表情は豊かで、アクションシーンもグイグイ動き、決して品質が悪かったというわけではありません。ただ日本の3DCGによるアニメーション表現の限界がここまでであり、ドット絵で壮大な世界観を表現していた原作が3DCG以上に偉大だった……それだけの話です。
しかし背負うのはドラゴンクエストの看板。声優は豪華俳優陣。一本の映画が作られるまでにはたくさんの利害関係者が関わっています。そんな方々のためにも、プロとしての矜持のためにも、仕事で食い扶持を稼いで家族を養うためにも、決して途中で「こんなの無理だよ!」と投げ出すことはできません。
一本の映画として世に送り出される作品としてはあらゆる要素が破綻している――そんな状況下において、それを無理やりにでも作品として纏めるために利用したのが「ゲーム世界でした」というメタ要素なのではないかと私は考えています。
もし「ゲーム世界でした」というオチがなければ、この映画は何の価値もない駄作だったでしょう。
よくあるつまらない実写映画化と同系列……という烙印を押され、よくあるたくさんのメディアミックスにおいて恵まれなかった作品としてすぐに人々の記憶から消え去っていたはずです。
もちろん駄作の烙印と人々の記憶からの消失は避けられないでしょうが、この「ゲーム世界」というオチは映画を観に来た観客にどんなに小さくとも「オッ」と思わせるものがあったのではないでしょうか。
映画を見続けて一時間以上まったく心が動かなかった私もこの展開には驚きを隠せませんでした――少なくともこうして映画の感想記事を書く程度には。
ウイルスによって破壊されるゲーム世界。悲痛な叫びを上げる主人公にウイルスは告げます。
「大人になれ」
主人公のドラゴンクエストへの想い出を、ゲームという体験を、まるっきり否定する言葉。
しかし絶望しかけた主人公の前に助太刀に来たのは――ゲーム内で主人公の仲間だったスライムのスラリンでした。
「実はおれはウイルスに対抗するワクチンなんだ!おれの力を使え!」
ちなみにこの瞬間はじめて喋ったスラリンのCVは山寺宏一さんです。
ポケモン映画から迷い込んできたのかな?
そんなスラリンを媒介に召喚されたのはロトの剣を思わせるシルエットをした光り輝く剣。
幼い頃からドラゴンクエストという作品が自分に与えてくれた勇気を糧に、偽物と切り捨てられたこのゲーム世界を通じた冒険がたしかに現実の経験として心に在ることを信じ、主人公が振り下ろした剣はウイルスを斬り裂くのでした。
こうするしかなかった。
破綻している物語をそれでも物語として繋ぎ止めるには、これしかなかった。
この映画において結局最後までウイルスやらワクチンがどういう存在なのか、どうしてそこに在るのかは判明しません。
でもこれでいいんです。
真の敵は「こんなのゲームでしょ」とゲームの体験を否定する存在であり、そしてそれに抗うのは幼い頃にゲームを通じてワクワクを体験した主人公のゲームの体験を信じる心なのです。
真の敵に抗うためのキーとなるのがスライムとロトの剣なのは、それがドラゴンクエストという物語の象徴だからなのです。
実はこの世界そのものがひとつの本だった。ゲームだった――そういうメタな展開をする物語は、ゲーム漫画アニメといったサブカルに傾倒している人ほど思いつく作品が多いと思います。
私もいくつか思い当たる節がある中で、映画を観ながら類似点を強く感じたのは、同時期に公開された映画『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』でした。
ドラクエ映画のテーマと同じく仮面ライダーも子供たちの夢を背負って立つ作品。
この仮面ライダーの映画は平成に入ってからの仮面ライダー新シリーズ――いわゆる平成ライダーの20作品記念の映画となります。
平成が終わり令和の世へと踏み入れた時代において公開されたこの映画もまた、ドラクエ映画と同じくメタな展開をする作品でした。
映画内でタイムスリップの描写があるも、辿り着いた戦国時代における長篠の戦いにおいては馬を使う予算がないせいか、武田軍の騎馬隊がなんと騎馬戦で表現されます(は?)
そんなムチャクチャな展開の後に待ち受けるラスボスは「平成をやり直す」という目的を掲げていました。ラスボスの目的は、これまで20作品の間で色々とムチャクチャだった平成ライダーの歴史をやり直し、凸凹な世界観を統一してキチンとした作品として舗装することだったのです。
「そもそもこの作品つまらなくない?」という究極のメタが敵となる映画において、しかし主人公たちは諦めず「たとえ凸凹でもこの平成という時代を生きてきた自分たちの一歩一歩を信じる」という信念の前にラスボスは(いわゆる令和おじさんのパロディのポーズをしながら爆散して)敗北します。
物語世界に対するメタで作品を成り立たせている両映画ですが、しかし私が感じる作品への評価はまるで違いました。
例えるなら、ドラクエ映画はジオウ映画における騎馬戦のシーンだけを100分近くひたすら流して、最後の1分で平成キックをしたような作品。
「どんなに凸凹でもこれが俺たちの生きた時代なんだ! それを否定なんてさせない!」
というメッセージは立派でも、そこに至るまでが騎馬戦100分だったら「いやこれが平成を駆け抜けた軌跡なのだとしたら平成やり直したほうがよくない?」ってなっちゃうじゃないですか。
そもそもドラクエ映画はメタを語る前に本筋がつまらない……虚無なんですよね。
映画の最後に出てくるメタの部分は「ドラクエ最高!ドラクエと共に青春を過ごした俺たち最高!」みたいな話以上に、そもそも物語が破綻しているのをどうにか作品として繋ぎ止めるためにやっているわけで、それが終盤までの物語がつまらないことへの免罪符になるかといったら前述の通りならないわけです。
最後に何をやっても、私が映画を観ている約100分は「つまらない」という感情でいっぱいだった。
最後のメタ展開はそのつまらなさへの言い訳でしかなかった。
そもそも本気でメタ展開で物語を成立させるなら、序盤の時点でこれがバーチャル世界だと提示するだとか、もっと他のやり方があったはずなんですよね。
『スライムはドラクエの象徴!そこから引き抜かれるロトの剣で、ゲームなんて嘘っぱちなんて言うやつに見せつけてやろうぜ!』
これはラストの展開で伝えたかったであろうメッセージを私の言葉で書き起こしたものです。
言いたいことはわかる。わかるよ。でも伝わらない。
例えば「ゲームなんてくだらね〜笑」といじめられてた少年がそれでもゲームの可能性を信じて、大人になってゲームデザイナーになったり、そうでなくてもゲームがあったからこその人生を送る映画のラストがこれだったら感動していたと思います。
でもこのドラクエ映画で「所詮ゲームなんて嘘っぱち」という話が出てきたのはラスト10分未満くらいのところなわけで、そこで「それでもゲームの可能性を信じる俺たち!泣」みたいな話をされても呆然とすることしかできませんよ。
スラリンの「おれはワクチン!(CV.山寺宏一)」で私は考えるのをやめました。
でも最初に述べた通り、やはりこういう「つまんない映画観ちゃったな〜損したよ」みたいな体験も、大切な経験だと思うんですよね。
映画の中ではドラクエをプレイする幼い頃の主人公は瞳を輝かせていましたが、現実ではパパママからの誕生日プレゼントとかで買ってもらったゲームがとんでもないクソゲーで後悔するとかそういうこともあったはずなんです。
面白いだとかつまらないだとかそういった喜怒哀楽の経験が全部ひっくるめて人間を形作る糧となり、そうして人生というものは続いていく……。
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が駄作か駄作でないかと問われたら純度100%の駄作と答えるのですが、しかし最後で「やってられるか!」とちゃぶ台返しをしたことによって、駄作は駄作でもこの目まぐるしい情報社会の中で一、二週間くらいは忘れられない怪作にはなったと思います。
人によってはラストの展開を「観客に対して不誠実だ」と思うかもしれません。
でもあれだって映画の制作スタッフが一生懸命頑張った結果なんです。
私はあの結末を(クソつまらなかったという形で)受け入れています。
私が映画を観た劇場では、華金の仕事終わりにドラクエ映画を観に来たスーツ姿のサラリーマンたちが映画が終わると同時に「まぁ、仕方ないよね」と口々に話していました。
私たちは子供から大人になったのです。そしてその中で成長したのです。
「仕方ない」を大人になったが故の諦めとして捉えてしまう人もいるかもしれません。けれど私はそうは思いません。
「仕方ない」という言葉は諦めではなく赦しなのです。広い視野を以て物事を捉えられるようになった大人による、誰かの失敗を受け止めてその心情を慮って許すという優しい心なのです。
どんな映画作品にもそれに仕事として取り組んだスタッフたちがいる。作品への評価は別として、誠実に作品と向き合ったスタッフに対して、最低限の敬意を持ちたい。
ドラゴンクエストという作品に触れて育った私ですが、決してゲームのキャラクターのようにカッコよく優しく強い存在にはなれません。
けれどせめてしょうもない映画を観ても「こういう一見しょうもなさそうな体験が凸凹に積み重なっていく中で私という人生もまた形作られていくんだな」と赦せるような、そんな人間に私はなりたい――そう思わせてくれる映画体験でした。
ありがとう、ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
ありがとう、こんな映画を観ても赦せるだけの懐の深さを作ってくれたジオウOQ
たとえどんなにつまらなくてもそれが「ユア・ストーリー」だと言われてしまったからには、それが私という人生の物語の一部に組み込まれてしまったという事実を受け止めて生きていくよ。
でもまだ観ていない方は、わざと地雷を踏んで「こりゃひで〜わ笑」となる自傷遊びをしたい方以外は観ない方がいいよ。