博愛置場

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アイカツフレンズ!第12話から振り返る ~あの少女同士の関係をどう受け止めるか~

エマちゃんが「言わなきゃ伝わらないじゃん?」と言っていたので書きました。

 

 

はじめに

 

アイカツフレンズ!第12話で描かれたあいねとみおの関係性をあなたはどう捉えるでしょうか?

 

アイカツフレンズ!とはアイドル活動に励む女の子たちが二人一組のアイドルユニット《フレンズ》を組んで、憧れのダイヤモンドフレンズを目指しアイカツに励む物語。

 

しかしこの《フレンズ》という関係性が作中世界観において描かれる独自のものであるが故に(大きなお友だちの間で)様々な解釈を生んでいます。

 

 

まだアイカツフレンズ!第12話を観ていないそこのアナタ!

この記事を読むのを一旦止めて、とりあえず公式の無料配信を観ておきましょう。

 

youtu.be

 

観た方は以下の続きをどうぞ。 

 

 

そもそも発端となったのは11話や12話における描写になるのでしょうか。

主人公たちの《フレンズ》結成とその後の関係を描いたこの2話。

言ってしまえばこの2話においては明らかに偶然とは言い難い形を以てして《恋愛》《結婚》といったワードとそれを示唆する演出が使われました。

 

これに対し、

 

「いや恋愛じゃないって言ってるけれど、どう見ても恋愛の文法で話が進んでるよね……?」

「ここで不意に相手方の両親へのご挨拶みたいな展開になるのなに?」

 

といった反応や、それらに対し

 

「これが恋愛に見えている奴は女の子の気持ちがまるでわかっていない!」

「こういう感情は年頃の女の子にはよくあるもの!!!!!」

 

と真っ向から迎え撃つ反応も見られ(一部の大きなお友だちの間では)血を血で洗う論争になりかねない雰囲気を感じています。

 

 

そんな中でどうして私がこの記事を書いたのかといえば、それはもちろんこの血を血で洗う論争に足を踏み入れようとしているからです。

 

結論から言えば、

  • 11,12話などの回は、そもそもアイカツという物語は、突き詰めたところ物語という表現方法は、受け手によって多種多様に解釈され得るものではないだろうか?
  • またこれらの回も多種多様な解釈をされることを前提に物語が形作られているのではないだろうか?
  • つまるところ「かくあるべき」「これ以外は認めない」という考えを個人の解釈以上のところに持ち出したり、他人に強制したり、自らにそぐなわないものを拒絶したりすることはナンセンスではないか?

 以上のことを私は主張します。

 

これらはひどく当たり前のことかもしれません。

受け手によって物事の意図が変わることも、どこまでいっても主観でしかない自身のその受け取り方を他人に押しつけてはいけないことも、少なくとも大人なら持ち合わせて当然の倫理です。

 

しかしこれらを実践することのなんと難しいことでしょうか?

 

 

この記事では、アイカツフレンズ!第12話「トマト、どーんとコイ☆」までの物語を踏まえて《フレンズ》という関係性を自分なりの考察と解釈で述べていきます。

その考察と解釈においては、今作に対しての視聴者の感想やこれまでのアイカツというコンテンツ全般を踏まえながら語っていくことを、事前に了承してください。

 

 

ちなみに本記事においては《百合》というワードから今作を掘り下げることはしません。

今回のテーマは百合という文化から作品を捉えるとそれはそれで主題が散逸してしまうので、今回においては上記に述べた別義のファクターから話を掘り下げていきます。

《百合》という文化から作品を掘り下げることについては、そういった記事を11話放送時点で書いているので、以下の記事を参照してください(12話が百合という観点からも凄まじい加速があったことを踏まえると、この記事もたった一週間でだいぶ古びてしまいましたが……)。

 

claim-mnrt.hatenablog.com

 

 

 

今作には無視できない交際や結婚の要素が示唆されている

 

見出しの時点で怒りを堪えきれなくなった方がもしいらっしゃったら、まずはその手に持っている鉈を一旦下ろしていただきたい。そして深呼吸してからぐっすり眠って美味しいごはんを食べて、肉体と精神の健康が十全に保たれた後に、続きを読んでほしいです。

 

まずはどうして11話や12話が放送される中でどのように《恋愛》《結婚》といったワードが出現したのかを振り返っていきましょう。

 

11話より。ドラマチックな告白に憧れるも、自分がやるとなるとどうすればいいか想像がつかないみおちゃんのシーンにおいて)

みお「ハロー、ココちゃん」

ココ「ココだよ!」

みお「ドラマチックな告白について教えて」

ココ「ココろえ……ってえ〜っ?! ドラマチックな告白?! それって恋愛について知りたいってことだよね?! さっすがみおちゃん、オトナだぁ〜」

みお「違う違う。フレンズになってくださいってドラマチックに告白するにはってこと」

 

(12話より。友希家の夕食の席でフレンズ結成の話題となり、観覧車での告白を誤魔化した際に、あいねとみおの仲の良さに思うところがあったかずねから)

かずね「でもな、あいねは小さい頃、お兄ちゃんと結婚するって言ってたんだぞ」

まさむね「かずね、あいねはお父さんとも結婚するって言ってたぞ」

ねね「あら、お母さんも言われたことあるわ」

よしつね「よしつねも〜」

かずね「みおちゃんはどうなんだ?」

すずね「流石にそれはないでしょ〜」

あいね「もうみんな何言ってるの〜!」

みお「それなら私も言いました!」

(一同驚き)

みお「あいねとはこれからもふたりで頑張っていきたいと思っています」

あいね「そうだよ」

かずね「ガーン」

 

片方は恋愛について否定するシーンであり、もう片方の結婚もあくまで幼い頃の話の延長であり別に法的な結婚に話が及んでいるシーンではありませんが(そもそもあいねちゃんとみおちゃんは中学生だからね……)、しかしどちらにも共通して言えるのは別に物語の本筋に必要なシーンではなかったということでしょうか。

 

11話はみおがあいねにフレンズを組む申込みをする回。12話はみおがあいねに毎朝いっしょに学校へ行こうと誘う回。

どちらの回もお話のテーマに沿えば《恋愛》や《結婚》というワードを出す必然性はありませんでした。

 

しかし実際に劇中においてこのワードは出現した。それが物語の主題と直接は関係ないのなら、そこには何らかの意図があったということでしょう。

 

もちろん物語、特にアニメーションの演出においてその意図なるものを把握するということは尋常でなく難しいでしょう。実際のところほぼ不可能です。

物語という表現方法において、作り手の意図と受け手の意図が正確に合致することはありえません。作り手のストーリーやその登場人物にこめた想いは、ストーリーや登場人物という存在を経由するが故に、受け手に直接伝わることはありません。受け手はストーリーや登場人物に自分なりの解釈を見出し、そこに感動したりするのです。

またアニメーションというものは集団作業です。多くの人が関わり、その上で作品が形作られます。今後アニメ雑誌などで制作スタッフへのインタビューなどが行われたりするでしょう。その中で「私はこういう意図でこのシーンを作りました」「私は特に《恋愛》といったニュアンスをこのシーンにはこめていません」と語られることもあるでしょう。しかしそれはあくまでスタッフひとり、もしくは数人の意見です。たとえ監督が「こういう意図で制作しました」と語っても、もしかしたらシリーズ構成は別の意図を持っていたかもしれません(もちろん集団作業である以上打合せで作品を完成させるための擦り合せはしっかり行っているでしょうが)。またシリーズ構成がある意図を持って制作していたとしても、各話の脚本家は別の意図を持っていたかもしれません。さらには絵コンテの方も別の意図を持っていたかもしれません。レイアウトは? 表情をつける作画監督は? 各カットを描く作画は? 中割りを描く動画は? 背景美術は? 音楽担当は? 演じた声優さんは?

つまり私たちは作品に対してたったひとつの明確な答えを出すことは永遠にできません。正解に近いものや、それらしいものを思いついたり示されたりすることはできても、それだけです。

また仮に明確なアンサーが作り手から示されたとしても、それで受け手の作品解釈が崩れてしまうこともまたありません。受け手の数だけ解釈があり、作り手がどういう意図で制作していたとしても、その解釈の聖域に踏み込むことはできないのです。

なので以下に続くことはあくまで限りなく客観に近い(つもりで書いた)私個人の意見であることを踏まえた上で読んでいただきたいです。

 

11話や12話には《恋愛》や《結婚》を意図的に言葉にしてそれらの存在を示唆した上で物語を組み上げている。

 

これは限りなく否定することが難しい意見でしょう。もちろんあいねとみおの関係は劇中において《フレンズ》と示されており、それ以上でも以下でもありません。しかし《フレンズ》という定義が劇中世界観における独自用語であることを前提とした上で、その《フレンズ》を描く物語には巧妙に《恋愛》や《結婚》を示唆する要素が使われています。

 

《恋愛》か《結婚》かと問われればノーで、それは《フレンズ》である。しかし《フレンズ》という劇中世界観独自の曖昧な概念の中に《恋愛》や《結婚》を示唆する要素が使われている。

 

このことを我々はどう受け止めるべきでしょうか?

11話も12話もべつにさきほど挙げたシーンを全てカットすれば《恋愛》や《結婚》といった要素を視聴者が意識することもなく、

 

「これはどう見ても恋愛では……?」

「ご両親へのご挨拶……」

「恋愛じゃないつってんだろうが! 年頃の女の子同士の友情!!!」

 

みたいな議論は発生しなかったのです。

我々はそれを肯定するか否定するかはともかくとして、そういった要素がアイカツフレンズの中に紛れこんでいることを認めている。否定するということは、つまり否定するべきものが存在していることを肯定している……。

 

《恋愛》や《結婚》といったワードは何も表面的にのみ使われているわけではありません。物語を構成する要素として一貫してそれらが使われています。

 

12話はともかくとして、11話はその傾向が顕著でしょう。

 

《フレンズ》というものを組むにおいて繰り広げられるストーリーは、《恋愛》というテーマを元に描かれるストーリーのテンプレートと非常に似通っています。というより11話は《恋愛》のテンプレートをなぞったある種のパロディやオマージュと解釈することもできるでしょう。

 

(恋愛ではなくフレンズという前提を置いた上で)

  • ドラマチックな告白に憧れるも、いざ自分でやるとなると想像がつかない乙女心
  • 結ばれるのはふたりだけという前提の上で繰り広げられる三角関係(もちろん誰かを独り占めしたいという感情は友愛の上でも発生し得る感情ですが)
  • 夕陽を眺め仲睦まじ気なあいねとなこの様子を「これってフレンズ結成の流れにしか見えないんだけど……」とやきもきするみお。視聴者は劇中世界観における独自用語の《フレンズ》が結成される雰囲気を知る由もなく、現実の価値観に当て嵌めると単純に「コクる雰囲気」以上の受け取り方ができない。
  • 観覧車のゴンドラが一番上に来たところで告白するとふたりはずっと幸せになるというジンクス。その提示と同時に映される幸せそうなカップルの画像。
  • 遠距離恋愛のパロディとしての遠距離フレンズ

 

細かい点を挙げればいくらでもそういう要素があるのですが、とりあえずわかりやすい点だけ挙げるとこんなところでしょうか。

面白いのは「恋愛ではなくフレンズ」と置いた上で終盤に「遠距離フレンズ」という言葉がオチのように使われているという点かもしれません。

ここまでやられると「恋愛じゃないって言ってるけれど遠距離フレンズってなんやねん!」という反応を期待してのギャグなのかなとも思います(実際私が初めて11話を観たときはみおちゃんが勇気を出してあいねちゃんを連れ去るシーンで号泣し笑うどころではなかったのですが……)。

 

親密な年頃の女の子同士の友情はときに傍から見ると恋愛と区別がつかない……というのはもちろん是でしょう。しかし直接的に《恋愛》というワードを引き合いに出したり、ストーリーの構成が恋愛モノになぞらえられているという状況が、それを《親密な友情》の一言で片付けることをできなくさせてしまっています。

 

これは私見の強い見解ですが、11話で用いられた《恋愛》の文法は物語のシビアさを緩和させる緩衝材のような役割になっているように感じました。

11話は二人一組が絶対の《フレンズ》という概念において、あいねちゃんがなこちゃんと親密になっているところにみおちゃんが割り込むという行動はなかなかにアグレッシブでした。

なこちゃんには意中のフレンズが他にいたとはいえ、重要なのはみおちゃんがなこちゃんという存在を前にしてそれでも尚あいねちゃんのことを諦めきれないという強い気持ち。

例えば過去作におけるアイドルとして霧矢あおいさんや桜庭ローラを思い浮かべてみましょう。同じ状況において彼女たちは一歩を踏み出し、星宮いちごさんや虹野ゆめちゃんに「他の子なんかじゃなく私と組んで!」と言えたでしょうか? これはあくまで私見ですが、それは難しいことのように思うのです。特にフレンズ11話では過去のアイカツシリーズのパロディとしてアメリカへ旅立つカレンさんをミライさんが呼び止めるという状況が展開されました。それはアイカツ!無印50話であおいが出来なかったことです。その後のパートナーズカップのエピソードでもあおいはいちごのパートナーにセイラを推薦します。

これは彼女たちに勇気がないという話ではなく、単純にアイカツというコンテンツの物語構造が「自分ひとりの我儘よりみんなの幸せを優先する」というロジックでできているからでしょう。もちろんアイドルたちはセルフプロデュースでトップアイドルを目指しますが、他人に迷惑をかけたりするような子はいませんし、仮にそういうことがあったとしてもきちんと反省してその上でさらなる成長をしていきます。

そんな中で、湊みおという人物の取った行動は他人の不幸を顧みないという意味ではある種の傲慢とも受け取れるものだったかもしれません。もしなこちゃんが本当にあいねちゃんとフレンズを組みたがっていたら、まさしくみおちゃんはなこちゃんからあいねちゃんを奪い去っていたわけですから。

しかしそんなアイカツの倫理に抵触しかねない危険を薄めるための要素が《恋愛》だったのではないかとも思えます。恋愛なら、惚れた腫れた、誰と誰がくっついたけれど誰かは失恋してしまったというストーリーはメジャーなものです。そこにフレンズ結成のストーリーを当て嵌めたからこそ、誰かひとりを誰かと誰かが奪い取るといったようなシビアなストーリーにある種のドラマチックさが付与され、不快感のない取っつきやすいアイカツらしさが出た物語として成立しているように思いました。

 

 

続いて12話に話を移しましょう。

12話においては「毎朝いっしょに学校へ行こうと誘う」という幼稚園や小学校のメインターゲットの子どもが直面しそうな身近な問題にフォーカスしながら物語が進行していきます。

それはまさしく《友情》の物語なのですが(もちろん学生カップルならいっしょに学校に行こうと誘うのも身近な話題でありそれを《恋愛》と捉えることもできますけど……)、しかしそこを前提とするときに引っ掛かりとなるのが夕食のかずね君のシーンです。

 

妹と仲の良いみおに思うところがあったかずね君が、11話の恋愛になぞらえて展開された観覧車での告白に対抗するかのように「あいねは小さい頃、お兄ちゃんと結婚するって言ってたんだぞ」と告げるシーン。

このシーンは「毎朝いっしょに学校へ行こうと誘う」という主題と1ミリも関係ない文脈から話題が派生しており、視聴者の多くが「いや何故そこでそんな話をする?!」と思ったことでしょう。

その後の「あいねとはこれからもふたりで頑張っていきたいと思っています」からのご両親の「よく言ってくれた」「みおちゃん、これからもうちのあいねをよろしくね」の言葉(その間に「いっしょに学校に行きたい」が挟まっているのですが)なども含めて、何故かあのシーンに漂う「ご両親へのご挨拶感」に言いようのない感情を覚えた方も多いのではないでしょうか。

 

 

どうしてそのようなシーンを挿入するのか?

ありていに言ってしまえば、まぁそれはそのほうが面白くて楽しいからという話になるでしょう。

11話も《恋愛》というファクターが一連に渡って物語のシビアさを軽減させる役割を担っていたように思いましたが、12話においてはそういった物語の根幹に関わりそうな意味合いも薄い中でそういった要素が用いられており、正直なところ私にはそれ以上の意味を見いだせそうにありません(もちろん幼いあいねちゃんの無垢な愛などが読み取れたりもするシーンなのですが、あくまで「毎朝いっしょに学校へ行こうと誘う」という主題から捉えたときの話です)。

恋愛や結婚の話というものはいつだって人の心を惹きつけるのです。人は他人の恋バナが大好きで、夜の修学旅行では好きな人の話で盛り上がり、誰が誰のことを好きといった話題はデリケートかつデリケートだからこそ人の興味をそそります。世には恋愛を扱った漫画やドラマが溢れ、週刊誌は芸能人の恋愛や不倫で盛り上がり、大作アクション映画でも特に理由もなく本筋と無関係なところで主人公とヒロインがいい雰囲気になり最後は幸せなキスをして幕を閉じます。

そんな中で《恋愛》や《結婚》といった要素の示唆を利用して視聴者の興味を惹きつけるというのはオーソドックスな作劇方法とも言えるでしょう。

 

 

《恋愛》や《結婚》を示唆する要素は巧妙に物語の中に紛れこんでおり、それらの要素をまったく無視して『アイカツフレンズ!』という作品、この11話12話を観ることは見えているものを敢えて見ないようにしている行為だと私自身は思っています。

 

 

 

人間関係の極致としてアイカツが描く愛

 

ここからはアイカツフレンズ!に限らず今までのアイカツシリーズを踏まえた上でのアイカツフレンズ!11話12話に向き合っていこうと思います。

 

ここから以下の記事で書いた内容と被る箇所が出てきますがご了承ください。

 

claim-mnrt.hatenablog.com

 

11話や12話において描かれた《恋愛》や《結婚》の示唆はたしかに異例のものであり、特にフレンズ結成の11話はこれまで290話放送されてきたアイカツの歴史に残る回となることは間違いないはずです。 

これまでのアイカツにおいては女性同士だけでなく男女間の絆も描かれてきましたが、こんなにも露骨に《恋愛》を描いたのは今回が初めてでしょう。

 

しかし振り返ってみると登場人物間の関係性を描写するときに恋愛をモチーフとした描写がされたシーンはいくつか存在したように思われます。

 

例えば無印79話「Yes!ベストパートナー」における霧矢あおいさんの「誰と誰が結婚すれば相性ぴったり――なんてルールがないように、アイドルのメンバー選びにもルールはない!」という言葉でパートナー選びの合同パーティが始まったシーン(合コンかよ)などがそうでしょうか。

他にも直接的なので言えば59話「ちょこっと解決☆チョコポップ探偵」における例の「これは恋?」のシーンもそうですね。

フレンズ11話と同じ大知慶一郎さんが脚本を務めた無印130話「ユニットの魔法」においてもスミレが凛をユニットに誘ったのに対してひなきが「う〜ん公開プロポーズとは大胆ですな〜」と例えるシーンがありました。

 

アイカツ!とはトップアイドルに憧れた主人公たちが夢を追いかけて、その中で様々な仲間たちと出会い、共に切磋琢磨しアイドルとして人間として成長していく物語です。

その中で育まれる登場人物同士の絆は深く親密なもので、それを視聴者が妄想で膨らませていけばときに恋愛という形に辿り着くこともあるでしょう。

特に例として述べたとおりアイドルユニットは仲間との切磋琢磨によって成長する描写の頂点に立つようなものであり、親密な関係を突き詰めていくとやはり視聴者に恋愛を感じさせる描写や恋愛をモチーフとした示唆などが出てくるのかもしれません。

 

そういった点を踏まえるとアイカツフレンズ!第11話で描かれた「フレンズ≒恋愛」という図式は必然だったのかもしれません。

 

 

実はあいねとみおの関係を表す言葉としてふたりが《友達》を使ったのは、9話における

 

みお「私だってあいねには友達だからって助けてもらった。お互いさまよ」

 

がおそらく最後であり、そこからふたりがフレンズを組んだ11話と組んだ後の12話においてはふたりは相手のことを《友達》とは呼びません(もし聞き漏らしがあったら教えていただけるとありがたいです……)。

もちろんふたりは《友達》ではなくなったということはないでしょう。カードも友達、ファンも友達であるのなら、もちろんみおちゃんもあいねちゃんの沢山いる《友達》のうちのひとりであることは間違いありません。今後の物語で互いのことを《友達》と呼ぶシーンがなくなるということはないはずです。

しかし「目指せ、友達100万人!」を標榜するあいねちゃんがみおちゃんとの関係を言い表すときに《友達》という言葉を無闇に使うとまるでみおちゃんが沢山の友達の間に埋もれるひとりであるかのような印象を与えてしまうところはあるかもしれません。

 

あいね「私はみおちゃんと仲良しだって自信あるよ。みおちゃんに最初言ったでしょ『どーんとコイ』って」

 

12話のベッドシーンにおける以上の台詞は《友達》という言葉を使っても良さそうなものを敢えてなのか「仲良し」と表現しています。

実は12話において《友達》という言葉を用いたのは、

 

千春「今までずっとアイドルを頑張ってきたから、友達と上手く付き合うのには慣れていないのかも……」

 

という台詞だけです(これも多分……抜けがあったら教えてください)。

物語全体において《友達》と表現しても良さそうな部分において、執拗に《友達》という表現が避けられ、《フレンズ》に言い換えられたり、会話の流れで誤魔化されたりしています。

 

《フレンズ》という唯一無二の関係を結んだあいねとみおの関係を表現するにおいて、《友達》という言葉は《フレンズ》の下位互換とまではいかなくても、劇中世界観を踏まえると安易に使えないのかもしれません。

 

 

では《フレンズ》とは何なのか?

アイドルユニットというビジネス以上の関係を以てして語られる《フレンズ》はときにその関係を《恋愛》や《結婚》にも例えられています。

話がややこしくなるのでこれまで敢えて言及を避けてきましたが、10話において描かれた舞花とエマの関係性も、言ってみれば「共通の友人にまだ付き合ってないの?と言われて互いを意識し始めてしまうカップル」に例えられるでしょう。

しかしお付き合いならまだしも《結婚》というワードが出てくるとややこしいところがあり、当たり前ですが彼女たちはまだ中学生なので結婚できません(本当に当たり前の話ですが……)。

そこにおいて「恋愛ではなくフレンズ」という劇中の明言とは裏腹にこういったモチーフが使われてくるといよいよ《フレンズ》という定義がわからなくなってくるのですが、そこに関して私は現状で深く考えるべきではないとは思っています。

 

《フレンズ》という概念は劇中世界観独自の関係性を表す名称であり、明確な定義については少なくとも現状の本編についても避けています。

それに対して現状で出せる答えとして限界なのは「フレンズというものは共にアイカツをするパートナーとしての一対一の関係」でしょう。

 

しかし、アイカツシリーズにおいて共にアイカツに励む仲間はときに深い絆で結ばれその絆は恋愛などに例えられることもあるというのは述べたとおりです。

そういう意味ではこれまでのアイカツが描いてきたアイカツを通じての人間関係の極致を具体的な名称を用いて表したのが《フレンズ》なのではないかと私は勝手に考えています。

そしてそれは一対一の関係であり、他人がつけ入るすきのないものであり、これまでのアイカツが「アイカツ=人生そのもの」という構図を描いてきた以上フレンズとは共に人生を歩む相手であり、だからこそ《恋愛》や《結婚》といった人生を歩むパートナーとしての意味合いを比喩として用いることができるのではないでしょうか?

 

 

個人的に面白いのはこれまで《恋愛》というファクターをなあなあに織り交ぜつつも物語の本筋をしっかりと描いてきたアイカツというシリーズにおいて、11話と12話が特別取り沙汰されていることでしょうか。

もちろん11話や12話やこれまでにない濃度でそれらが描かれましたが、よく考えてみればそれらの要素は昔からアイカツに存在していたものでもあります。

 

例えば、あかりちゃんと瀬名さんのアイドルとデザイナーとしての関係は、あくまでアイドルとデザイナーとの関係ですが、多くの視聴者がそこに《恋愛》のファクターを見出したでしょう。

もちろんそれはファンの想像という要素も多分に存在しますが、制作側の「殊更に恋愛として描くつもりはないがそう受け取られることは承知していた」といった旨の発言があったとおり、スタッフにも《恋愛》としての要素に注目していた方はたくさんいらっしゃったでしょうし、恋愛と断言はしないけれどまぁ恋愛として受け取ってもいいよねという感覚は間違いなくあったはずです。

 

しかし仮にあかりちゃんと瀬名さんの関係を《恋愛》の文脈であったとして(そのカップリングは地雷だ!という感情などは抜きにして)それでアイカツという物語の根幹が歪むことはあり得るでしょうか?

恋愛であろうがなかろうがあかりちゃんと瀬名さんのアイドルとデザイナーとしての関係に特にヒビが入ることもなく(もちろんそういう二次創作は二次創作で楽しそうですけれどそれはそれとして本編中の描写として)ふたりの関係性を通じてアイカツという物語が伝えたかったメッセージは微塵も変わることはないでしょう。

 

アイカツスターズ!においても結城すばる君に憧れて四ツ星学園へ入学した早乙女あこちゃんもアイカツらしい憧れを軸に夢を追うキャラクターだと思います。最終的に彼女が行うアイカツにおいて深い関係を繋いでいくのは花園きららちゃんだったり吉良かなた君だったりするわけですが、少なくともその最初の憧れにおいて(再度言いますがカップリングが地雷とかそういう話を抜きにして)否定するべきところはないはずです。

 

その理屈において仮にあいねとみおが劇中で結ぶ《フレンズ》という関係に《恋愛》や《結婚》といったファクターが入り込んだとして(百合のオタクが大喜びするのはひとまず置いといて)アイカツシリーズがこれまで描いてきた物語の根幹やアイカツフレンズ!が描こうとしている何かにヒビが入ることはあるでしょうか?

それは今までのアイカツを踏まえる限りはあり得ないはずなのです。

 

 

これはあくまで個人の一意見ですが、アイカツシリーズがこれまで描いてきたテーマは《友情》とか《恋愛》といった表面的な関係性の名称によって変わってしまうような薄っぺらいものではないと思っています。

 

いちごちゃんが美月さんに抱く「恋みたいな気持ち」が恋であろうがなかろうが、いちごちゃんが美月さんに抱く途方もない感謝や「みんなが素敵な明日を迎えてほしい」という気持ちは全く揺らがないはずです。

 

人間というものはとかく恋愛が大好きなので、色々なものを恋愛に見立てようとしますが、仮にどんなにアイカツスターズ!に恋愛を見出したとしても、それによって最終回で語られた「夢を追うこと」というテーマがきちんと受け取れなくなってしまうということは絶対にないはずです。

よく「女児アニメを百合目線で見てる俺は心汚れてる……」みたいな発言をしている方がいらっしゃったりもしますが、私としては別に百合として見ようが恋愛として見ようが友情として見ようが、それらの表面的な解釈だけではアイカツが描く物語の根幹は揺らがない以上、好きに観るのが一番幸せだと思います。

そして特定の表面的観点からの解釈において、それを自己卑下するならともかく、他人の表面的観点についてケチをつけるのは(そもそも他人の解釈にケチをつける行為がよくないというのは前提として)ナンセンスだと私は感じています。

 

 

 

 

アイカツフレンズ!が行う《友達》の再定義

 

表面的な解釈によってアイカツという作品の根幹が揺らぐことはない――という話をしてきました。

しかしその上で、

 

「だとしても私はその表面的なものに価値を見出しているんだ!」

「せっかく年頃の女の子のセンシティブな感情を描いていたのに、そこに《恋愛》だとかいった話を持ち込むな!」

 

といった感情もあるかもしれません。

特に後者においては最早《恋愛》や《結婚》のメタファーがここまで取り沙汰されている以上、今後これらのメタファーが再度使われないという保証はありませんし、素直に「今作は合わない」と割り切るのも手だと思います。

 

 

ただし面白いのは、私見として『アイカツフレンズ!』は《友達》という私たちの生きる基底現実に存在する表面的な関係性の再定義を行っているように見える節があることです。

 

劇中で何度も語られる「カードも友達、ファンも友達、目指せ友達100万人!」のテーマですが、冷静に考えれば私たちの生きる基底現実において「カードやファンが友達」という文化はありません。

 

これを「販促の都合」と斬り捨てることもできるでしょう。しかし9話で語られた

 

(ファンを前にして)

あいね「こんなに応援してくれて、こんなにあったかくて、ほんとにみんな友達なんだ」

 

千春「ドレスもアイドルの友達よ。一番つらいピンチのときこそ、一番あなたの傍で、支えになってくれると思うの」

 

の通り、『アイカツフレンズ!』は劇中世界における独自の価値観を用いて《友達》という言葉を再定義しています(私はその再定義が強く行われたのが9話という認識です)。

 

では《友達》とは何か?

それについて11話ラストの12話への次回予告で言及された箇所があります。

 

みお「友達ってなんだろう」

あいね「トマトも友達だよ。うん、トマ友!」

みお「えっ、さらにわからない……!」

 

まさしく「わからない」としか答えようがないのでしょうか。

あいねちゃんが標榜する《友達》とは「仲良しな人」といった意味合いを超えてファンやカード、果てにはトマトにまで拡大していきます。

アイカツフレンズ!』のテーマは《友達》であり、この概念については今後も間違いなく掘り下げられていくはずです。

しかしこれについて現状で「友達とはこうするもの」「友達同士ではこういうことはしないもの」といった私たちが生きる規定現実における《友達》の定義を持ち出してしまうことは、《友達》という言葉を再定義しようとしている『アイカツフレンズ!』の物語を理解するにおいて妨げになってしまうかもしれません。

 

 

余談ですが、完全な私見として私は『アイカツフレンズ!』が再定義しようとしている《友達》とは人生の中で関わりを持つすべての人や物事を指すのではないかと予想しています。

あいねちゃんにとっては、学校のクラスメイトや、家族や、同じこの町のことが好きな人たちや、その日出会ったばかりのみおちゃんや、応援してくれるファンや、いっしょにステージに立つドレスや、誤発注で大量に届いたトマトも、みんな自身の人生に必然であれ偶然であれ関わった存在が《友達》なのではないかと思っています。

そしてそれが偶然であろうと自らが関わった存在をどーんとコイで受け止めて関係を築いたことで《友達》という関係は深化していくのではないでしょうか。

そう考えると、人と人もしくは人と物事の関わり方を《友達》という温かい言葉で包みながら描いていくのが『アイカツフレンズ!』なのかなと(あくまで私の勝手な予想ですが)思っています。

私たちが生きる基底現実において《友情》と《恋愛》は得てして区別される概念ですが、以上の予想を基にすると、恋人も人生に深く関わるひとりとして《友達》であり、《友情》なのか《恋愛》なのかという議論はますます価値を失っていくと思われます。

 

 

 

多重的な解釈を前提とした、アイカツそして物語という伝達手段

 

以上『アイカツフレンズ!』の世界において《友達》という言葉が我々の生きる基底現実と異なる捉え方で再定義されようとしていることを前提とすると、

 

「これは年頃の女の子の間にはよくあることだから友情!」

 

といった主張や議論は価値を失うのではないでしょうか。

 

第12話で描かれた感情はたしかに年頃の女の子にはよくある切実なものではあります。しかし「だから恋愛ではない」という理屈には本来直結しないでしょう。

 

  • この感情は年頃の女の子が抱くような切実なものである→この感情は恋愛ではない

 

この命題を正としたときの対偶は

 

  • この感情は恋愛である→この感情は年頃の女の子が抱くような切実なものではない

 

となり、こちらもまた正でなければいけません。

しかし誰だって自分の思いを素直に伝えられず困ったりしたことはあるはずです。

11話も12話も、湊みおひとりに観点を絞れば、物語の本質として描いたのは「自分の気持ちに素直になること。その上で勇気を出して想いを言葉にして伝えること」であったはずです。

その本質については友情であろうが恋愛であろうが関係ありません。

 

12話を観た小学生が翌日勇気を出して友達に「いっしょに学校に行こう」と告げるかもしれません。

11話を観た中学生が翌日勇気を出して気になってた子に「ずっと前から好きでした!」と告げるかもしれません。

11話や12話に感化された社会人が、職場の労働環境を改善するべく意見書を提出するかもしれません。

 

受け取り方は人それぞれであり、多様に受け取れるからこそ「私たちの世界ではこれを《友情》と呼ぶ。故に《友情》以外の捉え方をした人間は、心が貧しく愚かなのである」と他人の作品に対する解釈や共感を安易に否定することは決してできないのではないでしょうか(もちろんそれは《友情》を《恋愛》に置き換えた場合も然りです)。

 

拡大した形で再定義される《友達》の世界の中において、ありとあらゆる人間関係がその《友達》の中に抱擁され、その中で視聴者は「自分の気持ちに素直になること。その上で勇気を出して想いを言葉にして伝えること」というテーマを自分の中のこれまでの経験に当て嵌めたりこれからの人生に反映していくのです。

 

つまりは

  • 12話を観て「私も幼い頃こういうことあったな」と思うこと
  • 12話を観て「妹が彼氏を連れてきたときかずね君と同じ気持ちだったな……」と思うこと
  • 12話を観て「ついこの前こんな感じで恋人のご両親に挨拶してきたんだが……」と思うこと
  • 11話を観て「私もこんなドラマチックな告白がしたい」と思うこと
  • 11話を観て「遠距離フレンズってなんだか私たちみたいだね?」とカップルがいちゃつくこと
  • 11話と12話を観て「私も勇気を出して想いをきちんと口にしよう」と老若男女問わず色々な人が友愛恋愛仕事などを問わず色々な状況について意識を改めること
  • 11話と12話を観てあまりの衝撃に同人誌を作ろうと思いたつこと
  • アイカツ!劇場版を観て少しでも素敵な明日を迎えたいと思うこと
  • そのために夕飯はちょっぴり豪華にしようと思うこと
  • 明日に備えてもう寝ようと決めること
  • アイカツスターズ!最終回を観て、小さい子がアイドルになりたいと思うこと
  • お花屋さんになりたいと思うこと
  • 夢を追って会社員を辞めようと思うこと
  • 漫画や小説などの創作で一山当てたいと思うこと

これらはすべて同じ作品に対し複数の視聴者が並行して抱いた感想であり、個々の人生や性格や感情によって導き出された別々のものです。

 

これまでアイカツが描いてきた《友情》や《恋愛》といった表面的な関係性の名称に左右されない大切なテーマは、様々な形を以てして視聴者の人生に変換され、それこそがアイカツというコンテンツが老若男女問わず多くの人の心に響いている理由なのではないでしょうか?

 

序盤に述べたとおり、物語という表現方法において、作り手の意図を完全に把握することはできず、作り手の意図と受け手の意図が正確に合致することはありえず、また受け手の数だけ解釈が存在します。

受け手の数だけ解釈があり、作り手がどういう意図で制作していたとしても、その解釈の聖域に踏み込むことはできない――それはつまり作品の受け手は自らの人生を以てしてその作品を自らの中に変換してしまうということです。

 

だからこそ私は最初に述べたとおり、

  • 11,12話などの回は、そもそもアイカツという物語は、突き詰めたところ物語という表現方法は、受け手によって多種多様に解釈され得るものではないだろうか?
  • またこれらの回も多種多様な解釈をされることを前提に物語が形作られているのではないだろうか?
  • つまるところ「かくあるべき」「これ以外は認めない」という考えを個人の解釈以上のところに持ち出したり、他人に強制したり、自らにそぐなわないものを拒絶したりすることはナンセンスではないか?

ということを主張しているわけです。

 

 

物語とは受け手の人生によって解釈が変わる以上、つまりは受け手の解釈を通して当人の人生が見えてくることもあるでしょう。

つまりは自己の価値観にそぐなわない解釈をしている人間は自己の価値観にそぐなわない人間である可能性も高く、故に人はたかがフィクションされどフィクションでひとつの物語を通じて解釈を議論し、ときにそれは血みどろの闘争にも繋がるのかもしれません。

 

 

しかし12話において描かれたのはみおちゃんの「自分の気持ちに素直になること。その上で勇気を出して想いを言葉にして伝えること」以外にもあったはずです。

 

あいねちゃんとフレンズになった実感が湧かず、気持ちを伝えることに臆病になっていたみおちゃん。しかし彼女の悩みをあいねちゃんは優しく受け止めてくれて、その後ベッドから這い出ようとして躓いたみおちゃんを彼女は文字通り身体で受け止めます。

(どうしてあのときみおちゃんはベッドから這い出ようとしたんでしょうね? 私はそういうのには疎いのでよくわからないのですが……)

 

あいねちゃんを通じて描かれた「相手の重く複雑な気持ちを『どーんとコイ』と懐の大きさで受け止める」というテーマ。

私たちは友希あいねちゃんではないので、相手の気持ちを無差別に『どーんとコイ』で受け止めることはできません。受け入れられないものは受け入れられないし、拒絶したいものは拒絶したいです。(私は拒絶する人間を拒絶する気概で血みどろの論争に足を踏み入れこの記事を書いているわけですから、それについてはもちろん私も例外ではありません)

あいねちゃんが色々な人に「どーんとコイ」と言えるのは、彼女が「目指せ、友達100万人」を標榜するくらいに《友達》という関係を信じているからです。

 

しかし『アイカツフレンズ!』が《友達》という関係が拡大し再定義していく中で、もしそれを見た私たちの心の中でも《友達》という言葉について定義が変わっていったとしたら、一体どうなるでしょうか?

受け入れることはできず、拒絶するべきで、関心を払う価値もない《他人》が、ある日突然『アイカツフレンズ!』が再定義する意味での《友達》になってしまったとき、私たちは一体どうするのでしょう?

私たちはそんな相手を受け入れるのでしょうか? 拒絶するのでしょうか? それともまた別の接し方をするのでしょうか?

 

そういったことも考えつつ、私はこれからの『アイカツフレンズ!』に注目していきたいなと思っています。

 

 

 

これは蛇足なのですが、《フレンズ》という言葉を巡る視聴者の思惑の中で私がふと思ったのは「少女革命ウテナを思い出すなぁ」ということでした。

少女革命ウテナ』というアニメ作品においては、ひとりの《薔薇の花嫁》を巡り少年少女たちが決闘し、勝者が薔薇の花嫁と《エンゲージ》できるという物語が繰り広げられます。しかし《エンゲージ》とは文字通りの結婚という意味ではありませんし、決闘の勝者は《薔薇の花嫁》の奥さんにできるということでもありません。《薔薇の花嫁》や《エンゲージ》といった用語は劇中世界観にのみ通用する独自の価値観として機能します。しかしかといってそれらが現実における結婚と無関係かというとそうではなく、《エンゲージ》した者は《薔薇の花嫁》を絶対服従の下に置き、花嫁も相手のすべてに従います。それはときに性的関係を示唆することもあり、それらの用語は私たちが基底現実において使う《結婚》の旧弊的マイナスイメージを強く意識させます。

こういった現実の事柄を引用した用語を劇中に登場させ、それは現実における事柄とは別義のものであり、しかし現実の事柄のメタファーになっている――この手法は《フレンズ》が現実の《友達》から英訳した独自用語であり、そこに現実の《恋愛》や《結婚》のメタファーを織り交ぜていることと非常によく似ていると思います。

少女革命ウテナ』と同じ幾原邦彦監督作品に『ユリ熊嵐』という作品があります。そちらもときに性愛を示唆するような少女同士の愛を《スキ》という作中の独自用語を用いながら、少女間に収まらない普遍的な愛を描いた作品となっています。友愛か恋愛かといった議論を全て放棄した上で、全般的な愛を《スキ》という言葉に託して語っているわけです。少女同士の愛が作品世界独自の概念に帰結していくという意味で《スキ》と《フレンズ》はとても良く似た言葉だと思います。

幾原邦彦作品の世界観は、現実世界の延長としての物語が形作られているのではなく、謂わば内的必然性といったものに拠って抽象的な描写が多く見られます。『アイカツフレンズ!』において友愛か恋愛かみたいな表面的な関係性の議論に熱中している方は、そういった現実世界の延長としての外的必然性ではなく、そういったものとは別次元の内的必然性として劇中の描写や《友達》《フレンズ》といった用語を受け止めてみるのもいいかもしれません。

16000字もの記事を書いてしまった上で言うのもアレなのですが、これらの議論は『ユリ熊嵐』という作品がこの世に存在していることを踏まえると全部馬鹿馬鹿しくなってしまう気がしていて、これは宣伝とかではないのですけど、どのような立場であれモヤモヤしている方は『ユリ熊嵐』を観るのがいいと思いました(アイカツとの関連だけに的を絞れば、少女間の愛を形容している作品という意味で、少女革命ウテナよりもユリ熊嵐のほうが個人的にはオススメです)。